contextile
solo exhibition as a part of TWS - Emerging
@トーキョーワンダーサイト本郷 2017
私は認識を行うためのmatrix(素地)を構築する。
matrixとは何かを生み出すもの。母体、基盤である。私の制作物は「何か」を表象したものではなく、「何かそれ自体」を生み出すものとしてあなたのまえにたつ。
text(文章)の語源はラテン語のtexere(織物)だ。
織物が人々の意思疎通や事象の記録を担っていた時代、織物は一つの言語体系だった。それは言葉や文章と同じく作用するものを生み出すmatrixだった。
textがcon + text(文章と文章を一緒にすること)によって前後関係や脈絡を構築し、その社会的、文化的、歴史的状況からcontext(文脈)の作用として言葉と文章の意味を決定していくように、織物では糸と糸を織り、その展開とともに構築される関係性のもとで、糸と布の在り方が決定されていく。contexere(織り合わせたもの)が context(文脈)の語源となったのはこのような類似によるものではないだろうか。そしてこの類似において糸と糸を織ることは「contextを行うこと」となり、textile(織られた布)は「contextを行ったこと」となる。
言葉は他の言葉との差異と文脈との関係性のうちで意味を持つ。では糸における他の糸との差異や文脈作用とは何か。そこで糸に与えられる意味とは何か。
言語体系が違えば世界の眺め方も切り取り方も違う。私たちの言語体系による世界認識の在り方から、今あらためて織物という言語体系へと回帰して世界を捉え直す。言葉から糸へ。そして再び糸から言葉へ。
この意味形成的実践行為を今回の展示において「contextile」と呼ぶ。
全ての他者たち (All Otherness)  
255 x 255cm
in the air / on the land
each 107.2 x 151.6cm
in the air - on the land  
85 x 85cm
in the air / on the land
each 107.2 x 151.6cm
review
文 = 平野 到(埼玉県立近代美術館 学芸主幹)
構築的に展開された、黒田恭章の連作を鑑賞する際、ソル・ルウィットなどのコンセプチュアル・アートとの比較を思いつく人もいるであろう。確かに、グリッド状に紡がれたテキスタイル作品の色糸の配列は、主観的ではなく、作者がルールを定め機械的に決定されている。条件を設定し、ヴァリエイションと展開のプロセスを提示している点では、黒田の作品はコンセプチュアル・アートの系譜に位置づけられるかもしれない。しかし、両者には決定的な相違があり、そこに作家の独自性を読み取るべきであろう。 では、その独自性は何か。黒田は、草木で絹糸を染め、それを手織りする工程をすべて自ら行う。仕上がりが驚くほど完璧であるため、結果として人為的痕跡を全く感じさせない表情になる。手仕事を重視しないコンセプチュアル・アートとは全く異なる、アルチザン的欲望が制作の根底に潜在しているのだ。個々の作品が放つ近寄りがたいクールな品格も、実は黒田の完璧な「手」を介して生まれてくるのである。 もうひとつの独自性は、黒田が芸術をこえる哲学的な問いを設定している点だ。織物(textile)/言語(text)/文脈(context)の語源の共通性に着眼する黒田は、言語が綴られ世界の文脈が語られるように、織られた糸と糸の関係のなかに世界の構造をなぞらえる。作品を構成する個々の糸にはヒエラルキーはなく、自/他や主/従といった二元論的関係もない。作品は一本一本の色糸が表現(主張)するものと、それらの関係性だけで成立するわけだが、そこに黒田は世界を解釈する糸口を見出そうとする。 かつて、ニーチェは「力への意志」において、世界には絶対的な意志は存在せず、すべて個別のものが主張し、せめぎ合い、その多様な関係性があるだけだと説いた。こういったニーチェの思考を、黒田の作品に重ね合わせて見たくなる。