そもそもの興味は、糸と言葉の関連性にあった。text(文章)の語源がラテン語のtexere(織ること)であるように、織物は言葉や文章が発達するより前の、私たちの意思の疎通や事象の記録を担う一つの言語体系だった。
そして今、織ることは私に、自/他、主/従、人為/自然などの二分法に囚われることのない視点と、私たち/世界を互いに互いのうちに織り込み包摂した現実を再提示する。

私たちの世界は言葉で溢れていて、言葉は私たちにとっての対象を可能にする。言葉が表す意味や概念は、対象にアウトラインを与え、私たちは地と図の構図のうちにその存在を認識する。それは、語り、認識する主体としての私たちと、語られ、認識される客体としての対象とが距てられたその時から続く、「私たちにとっての世界」であり、言葉が世界を代替することで成立している「(実質)世界」だ。物質的な現実に、実質的な現実がほぼぴったり重なりながら一つの現実であるように見せる今の私たちの世界だ。
しかし言葉ではなく、コードによって世界が記述されていく現代において、私たちの世界は変容しつつある。私たちはいつまで世界の主体であり続けることができるのだろう。すでに主体の位置にはコンピュータが顔を覗かせ、私たちはモノを扱う側から、モノに操作される側へとシフトしている。世界は人間のパースペクティブによってのみ固定されるものではなく、近代的な主体や個人の概念に囚われたままの私たちの言語で世界を記述することはもはや叶わない。デジタル化やコードによる世界の再記述、代数化は実質世界を超実質世界へと更新し、超実質は物質と実質の距たりを取り払うことができるかもしれない。そして私は、織物が物質の側から同じことを可能にするのではないかと考える。織物という物質言語と共に、私たちの世界の更新を試みる。

私の制作は草木で染めた数百色の絹糸を、経糸として一本一本選択しながら配列し、緯糸として一本一本選択しながら織っていくものだ。一度の制作に要する色糸の選択は数千から数万回におよぶ。制作にあらかじめ決められたデザインや設定された目的地はなく、毎回の選択によって一つの織物が形成される。織物には私が行った選択の全てが記録されている。
織物を言語に例えるなら、ここには、私の言葉=糸を用いて、文章=織物として記述した、私にまつわる数千から数万語の膨大なリストがあることになる。言葉の選択や用い方にその人のひととなりが現れるように、そして一日の選択の繰り返しが今日の私やあなたを形作り、今までの選択の集積によって今の私たちがあるように、数千から数万回の色糸の選択が織物に現すのは私である。しかし私が織り終えたそれと対峙する時、そこに現れるはずの私は、形容し難く、捉えようのない何かであった。そこには私であることと、私自身とのいいようのない距たりが存在していた。

また私はこの制作において、色糸の選択者であり、糸を織る行為者であり、織物の制作者である。ここでの私という存在は、一見、織物に対する主体的な、全ての権限を持つ者のように見えるが、実は糸を選択をするのは私だけではない。糸もまた、私の選択を選択するのである。私は糸を掴みとるが、糸も私を掴みとる。私は糸を対象とする主体であり、糸も私を対象とする主体である。私−糸の関係は主−客であると同時に客−主である。そもそも一本の糸には、その糸を吐いた蚕や、その糸を染めた草木、それらを育てた土や水、空気の記憶や気配が含まれている。それは言葉では言い表せないものかもしれないが、確実にその糸のあり方を形成し、私もそのあり方の影響を受け左右する。そして織物がコンテンツとメディアの両方の性質を併せ持つ存在であるように、一本の色糸の選択に含まれる私や糸のあり方は、それ自体が図を現わしつつ、織物という地を構成する。私たちは、私であり糸であり地であり図であるものとして織物を織り、織物に織り込まれる。

つまりこれらの結果として織物に現れるはずの私とはすでに私たちであり、その私たちは織物にあり、織物になっている。 その織物に対して距たりを見る私自身とは、近代的な主体の概念に囚われたままの認識をしようとする言語的な私なのだろう。織物と対峙する時、ここには物質と実質のほんのわずかな隙間がある。今私たちはその隙間を認識することができる。この隙間を認識できないくらい私たちと世界が近づけたとき、(それは織物のあり方が示すように)私たちはこの世界に「ある」ことと、この世界に「なる」ことを同義にすることができるのではないか。

私であることと、私自身とのいいようのない距たりに向けて、私は糸を織る。この世界にあり、この世界になるために、私は糸を織る。そして再び、私であることと私自身との距たりに向かい、その結び目を探す。

 

2021年1月
黒田 恭章